〇 『新撰組顛末記』(晩年の永倉新八の聞き書きに基づく新聞連載読み物(大正2年)をまとめたもの)より
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新撰組はもと羽藩の志士清川八郎が建言のもとに幕府をして尽忠報国を標ぼうして募らせたいわば烏合の勢、熱をあたえれば一団となって櫛風沐雨の苦楚を嘗むるを辞さないが、いちど冷むれば左右反目嫉視していがみあう。なかにも近藤勇は蛮骨をもって鳴らしただけおうおうにわがままの挙動がある。かれは芹沢鴨の暗殺いらい専制をほしいままにし、壬生の屯所にあっても他の同志をみることあたかも家来などのようにとりあつかい、聞かずんば剣にうったえるという仕儀に同志はようやく隊長近藤をあきたらず思うものがでてきた。脱走するか、反抗するか、隊員はいまや無事に倦んで不平に囚われ、感情を区々に弄してやがては壊裂をきたす前徴がみえる。
かくと着眼した副長助勤の永倉新八、齋藤一、原田左之助などがしきりになげき、もしこのままにして新撰組が瓦解せんには邦家の損失であると観念し、調役の尾関政一郎、島田魁、桂山武八郎らととも語らい、六名とも脱退のかくごをもって会津候に建白書をだした。書中には隊長近藤の非行五ヶ条をあげ、まず藩の公用方小森久太郎に面会してだんぜんと陳情し、
「右五ヶ条について近藤が一ヶ条でももうしひらきあいたたばわれわれ六名は切腹してあいはてる。もし近藤のもうしひらきあいたたざるにおいては、すみやかにかれに切腹おおせつけられたく、肥後候にしかるべくおとりつぎありたい」と熱心面にあらわれる。
(後略:結局、新選組が解散しては預かっている容保の不明になるというので、近藤と手打ちをしたと書かれています) |
『顛末記』は大正2年の読み物なのでどこまで本当か不明です。明治初期に永倉自身が書いた「浪士文久報国記事」の方にはこの件は記されていません。報国記事と顛末記を読み比べると、報国記事は顛末記より、より名誉回復的な感じが強く、新選組の暗部にはほとんど触れられていない印象を受けるので、そのうちのひとつなのかもしれませんが。
なお、『顛末記』では、この後、一件を水に流した永倉が近藤らと東下したとされています(当時在京の西郷隆盛と江戸で会見したとか絶対ありえないエピソードつきですが)。東下そのものは史料によって確認できますが、9月6日、近藤・永倉らの東下に相前後して、桂山武八郎とみられる隊士(=葛山武八郎)が切腹死しています。『顛末記』には彼の死は触れられていません。
参考:『新撰組顛末記』(新人物往来社)p109-113、『浪士文久報国記事』(PHP) |